高校1年の夏、僕は原付バイクで山形から富士山へ向けて一人で旅立った。
それは後から考えれば無謀ともいえる計画ではあるのだが、そのいきさつを夏休みの宿題の作文に書いて提出した。
学校へ無届で、またその無謀な内容に学校でも無視できなかったのか職員会議にかけられたのだった。
しかし、国語の教諭からは「よかったよ」などと声を掛けられ、その年度の学校発行の文集に「一人ぼちの旅行」という題で掲載になったのである。
発行された文集で、当時かなりの話題になったのを覚えている。
友達もいない孤独な僕に友達ができ、恋人らしき女の友達も現れたり・・・・
しかし、その文集はどこへ行ったのやら、行方不明になって数十年が過ぎていた。
それが先日、ある探し物の最中、押入れの中の紙袋の中からその文集が出てきたのである。それも大正時代の印刷物か?とも思わせる色合いに色あせて・・・。
それから懐かしい文字列に眼を落とすと、一気に読み進めてしまい、最後には当時の気持ちになっていて、思わず涙がこぼれ落ちるしまつでした。
[ 写真は、1963年(昭和38年)の、十国峠から見た箱根の芦ノ湖 ]
そんなことで、また無くすのも困るので、というよりも多くの若い人にも読んでもらいたいとも思ったからなのですが、ここで公開してみようと思いました。
※正月恒例の「大学箱根駅伝」のテレビ映像に映った芦ノ湖と箱根神社。その映像を見ているうちに、自分と箱根の思い出がよみがえってきたというのが正直なところです。
高校一年時の文章ですし、へたですし、つたない文章なのですが、私はこの文集を先日数十年ぶりに読み返したときは、涙が流れ出し、一気にあの当時の私に戻ってしまったのです。
あの時は、父も、兄も、まだ生きてたんだなぁ・・・、なんて。
ああ、そうそう、この旅行記は、あの東京オリンピック(1964年)の前年の出来事です。古い話ですみません。
でも、現在学生の皆さんにも、何かの足しになれば嬉しく思います。
取り立ての原付免許証を手に、無謀な旅行に飛び立った私の体験記です。
掲載の写真も、白黒で、時間の経過を物語っています。
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「一人ぼっちの旅行」
(写真は、茨城県の大洗海岸で:1963年8月)
【序章】
僕は小さい頃から旅行は好きだったが、自分から進んで行きたいと思うようになったのは中学一年のとき買った本に自転車で世界一周をなしとげた二青年の体験記というものがあった。それを読んでからのことである。
その頃の僕は世界というものに非常に惹かれていて「将来、世界一周を必ずやってみせるぞ!」と誓っては浅い考えでよく地図を広げては思いにふけっていたものである。
【思いたち】
そして、高校一年の夏休みを利用して、少し大きな旅行をしてみたいと思いたったのである。それからは暇をみては少しずつ計画を立てていった。
どこに行くか。何で行くか。何人で行くか。金は日数は、などなど、いろんな面から検討し、また考えぬいた。
休みが近づくにつれて少しずつ決まっていった。
どこに行くかについては自分の住まう東北地方もよいが、以前から行ってみたいと思っていた関東や甲信越地方の名所巡りと決めた。
その中には富士山に登ることも入れておいた。
などと、私の高校一年の夏休みの体験記です。そして、青春の大事な一ページでもあります。
※そこで、さらに多くの若い人に読んでもらいたいという思いで、2018年の5月に、amazonのキンドル電子書籍より、電子出版をしてみようと思ったのです。
著者は「高井りょう」という私のペンネームを使用しています。
そして書籍のタイトルは「16歳の夏」です。
どうぞ、ご理解のほどをお願い申し上げます。
(※キンドル出版の規約で、他で無料での掲載は出来なくなってしまいました。)
◆キンドル電子書籍版「16歳の夏」では全編がご覧いただけます。
若い人、学生さん、そして親御さん。ご兄弟・・。
皆さんに読んでほしい内容です。
(「キンドル版」は以下のURLからどうぞ!)
明けましておめでとうございます。
ご無沙汰しております。敦子です。
時折、こそーっとサイト覗いていました。
作文と呼ぶにはかなり長編のこの思い出の記述を
初々しい小説のように読んでいました。
読みながらわたしにも高校生のミミオンの姿が見えました。
素敵な冒険ですね。
帰る所があるから出来た冒険でもあったのですね。
わたしも読みながらハラハラし無事に帰れたことにホッとしました。
その後、家族からは怒られずに笑顔で迎えてもらえたのでしょうか?
またいつか、この話しの続きを聞かせてくださいね。
コメント、ありがとうございます。
青春の思い出って、誰にでもありますよね。・・ただ、この旅行はあまりにも無謀すぎたかもしれません。
まさに、生きて帰ったことが不思議なくらいです。(笑)
ただ、いまでも悔しいのは、せめてあと5千円あったらなぁ~!です。
でも、650円で泊まれた旅館とか、10円払って湘南道路を走ったとか、それだけでも貴重な昭和の資料ですね。
150円の十国峠の有料道路は高すぎたと今でもおもいますけど。
ああ、家に帰ってからのことを少し。
父からも母からもまったく怒られませんでした。
箱根の警察から事故の連絡が入ってからは、父母は神棚に毎朝ご飯をあげて、無事帰還できるようにと祈っていたそうです。
僕が「ただいま~!」と泣きながら家に帰ったときの、父の姿を今も忘れられません。
駆け寄る母や、兄たちの後ろの方で、父は一人、神棚に向かって、手を合わせておりました。
親とは、ありがたいものです。そんな父の姿を見て、僕はさらに泣いてしまったのですから・・。