移動演劇隊「さくら隊散る」俳優-丸山定夫

「さくら隊散る」俳優-丸山定夫

「桜隊」は、1945年8月6日広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し居合わせた9名全員の命が奪われました。

映画館や劇場の相次ぐ閉鎖を受けるなか、昭和20年(1945年)内閣情報局が奨励する移動演劇隊「桜隊」が結成される。
その隊長を務めたのが俳優:丸山定夫だった。
この劇団には園井恵子、仲みどりの他、高山象三、多々良純、森下彰子などの俳優、八田元夫などの演出スタッフなど総勢17名が参加する。

しかし、昭和20年(1945年)8月6日。
この日、中国地方巡回公演に備えて桜隊のメンバー8名と広島市内に滞在していた丸山は、原爆の投下に遭遇した。

近年では、新藤兼人監督映画「さくら隊散る」や、新国立劇場の柿落としに上演された、井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」などの作品にもなりました。
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■今回の記事は、私の身近な人のことでもあり、今年の「広島原爆の日」を記念して、こちらのサイトにも掲載させていただきます。(スニーカー・サイト運営者)

 

名前 丸山定夫(まるやまさだお)
性別 男性
没年齢 44歳
誕生年 1901年5月31日
没年 1945年8月16日
死因 原爆被爆死(広島にて)
生活地 愛媛県・東京都
 

投稿者 遠縁の者
関係 縁者
登録日 2011.5.28
   
   
 

◆かかわりの記録(丸山定夫の略歴)
私は丸山定夫の、遠い親戚に当たります。
正確にいえば、私の父の父、つまり祖父のお兄さんが丸山定夫です。
祖父は医師でした。どういうわけか、四国松山から、山形市へ流れ着いて、とある病院で医局長をつとめ、山形市で晩年を終えました。
定夫おじさんのことは、子供の頃から話に聞かされており、仏間には、額縁に入った定夫おじさんの大きな写真が飾られておりました。
そのようなことから、思い出の意味をこめて、投稿させていただきます。
(記事は、Wikipediaより)

丸山 定夫(まるやま さだお、明治34年(1901年)5月31日 – 昭和20年(1945年)8月16日)は、大正・昭和期の俳優。
築地小劇場第一期メンバーの一人である。
広島に投下された原爆により壊滅した移動演劇桜隊(さくら隊、櫻隊とも表記)の隊長を務めた。
新劇の発展に貢献し、新劇の団十郎と賞賛される。

愛媛県松山市北京町(きたきょうちょう=現在の松山市二番町)に生まれる。
父は新聞記者・丸山常次。8歳で父と死別。中学への進学をあきらめ、職を転々とする。

文学少年だった丸山はやがて戯曲に興味を持つようになり、大正6年(1917年)、広島を拠点に全国を巡業する青い鳥歌劇団に入団。俳優としてのスタートを切る。
同時期に榎本健一(エノケン)、徳川夢声らと知り合う。

【俳優への道】
その後上京して浅草の根岸歌劇団に入団。
関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)後の被災地で築地小劇場創設の趣意書を偶然拾ったことがきっかけとなり、翌大正13年(1924年)、演出家・土方与志宅に単身乗り込んで自身を売り込み、築地小劇場研究生として採用される。
研究生の同期には、千田是也、山本安英、田村秋子などがいた。

昭和3年(1928年)、築地小劇場の中心人物だった演出家・小山内薫が死去。
これにより劇団内部に意思の食い違いが生じるようになり、翌昭和4年(1929年)、丸山、山本、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子(のちに高橋とよ)、細川知歌子(のちに細川ちか子)の6名が脱退、土方を中心にして新築地劇団を結成する。

尾崎士郎『人生劇場』の吉良常、ゴーリキー『どん底』のルカ、チェーホフ『桜の園』のロパーヒンなど、新築地劇団で丸山が演じた役は90以上にのぼる。
特にモリエール『守銭奴』のアルパゴン役は好評を博し、彼の代表作とされている(後に鎌倉市小町の妙隆寺にアルパゴンを演じる丸山の肖像を刻んだ墓碑が建てられることとなる)。

エノケン一座出演と同時期の昭和8年(1933年)、自社製作を開始したばかりのP.C.L.(のちの東宝)と専属契約を結び、映画俳優としてのスタートを切る。
おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』(1935年、成瀬巳喜男監督)、『彦六大いに笑ふ』(1936年、木村荘十二監督)、『巨人伝』(1938年、伊丹万作監督※『レ・ミゼラブル』の舞台を日本に置き換えた映画。曽我部刑事(ジャベール)役)、『忠臣蔵』(1939年、滝沢英輔監督※吉良上野介役)などがある。
故郷松山とゆかりのある『坊っちゃん』(1935年、山本嘉次郎監督)では山嵐を演じた。
国策映画にも多数出演し、『指導物語』(1941年、熊谷久虎監督)など原節子と父娘を演じた作品に名演技を残している。

【桜隊結成】
サイパンが陥落して、日本との距離を縮めたアメリカ軍が頻繁に本土空襲を行うようになり、本土決戦計画が立案されると、それは丸山たち国策と無関係に演劇活動を続けようとする俳優たちの活動にも影響を与えるようになった。
映画館や劇場の相次ぐ閉鎖を受ける形で、昭和19年(1944年)12月24日に苦楽座は解散。
しかしなおも演劇を続けたい、演劇を続けて暗い世相に活気を取り戻したいと熱望した丸山は、内閣情報局が奨励する移動慰問劇団の結成を思いつき、翌昭和20年(1945年)、移動演劇「桜隊」を結成する。
そして、この時期になってやっと丸山は移動演劇聯盟に加入することとなった。
この劇団には園井、仲の他、高山象三(薄田研二の息子)、多々良純、森下彰子などの俳優、八田元夫などの演出スタッフなど総勢17名が参加し、以後数ヶ月にわたって全国各地の農山漁村、生産工場などを巡回することとなった。

【被爆から死まで】
昭和20年(1945年)8月6日。
この日、中国地方巡回公演に備えて桜隊のメンバー8名と広島市内に滞在していた丸山は、原爆の投下に遭遇した。
被災した丸山は各地の避難所を転々とした後、8月10日に東京から広島入りした八田元夫ら2名により発見され、厳島の存光寺に移される。原爆症による高熱と痙攣、吐血、下痢に悩まされ、8月16日午後10時20分に死去した。享年44。
なお、広島行きをともにし即死を免れた園井、高山象三、仲も、丸山の死の直後に同様の症状により相次いで死亡している。

その死の特異さから、丸山追悼は桜隊および平和祈念と結びつけられることが多い。

故郷の松山市では、丸山の業績の顕彰と平和祈念を目的として、生誕100周年にあたる平成13年(2001年)から毎年誕生日の5月31日に「丸山定夫を語る会」が開催されている。
・桜隊に関して関係者の証言と再現ドラマで綴ったセミドキュメンタリー『さくら隊散る』(昭和63年(1988年)新藤兼人監督)も制作されている。ドラマ部分において古田将士が丸山を演じている。

【墓所・記念碑】
・墓所=知恩院(京都府京都市)、妙隆寺(神奈川県鎌倉市※昭和41年(1966年)建立、碑文は藤森成吉による)
・記念碑(桜隊原爆殉難碑)=天恩山五百羅漢寺(東京都目黒区)、広島県広島市平和大通り
・記念碑(築地小劇場記念碑)=東京都中央区築地

◆追悼メッセージ(丸山定夫の思い出・エピソード)

丸山定夫おじさんのことは、父から聞かされていましたが、あまりよく分からなかったのが実情です。
本も数冊ありました。
しかし、時代のなせる業とでもいうのでしょうか。ネットで調べると、Wikipediaなどにけっこう丸山定夫おじさまのことが書いてあり、驚かされています。日本の映画の勃興期に活躍されていた方が身内にいたことを誇らしく思います。
ただ、いま生きていれば、大役者になっていたよ。とは父もよく言ってました。

毎年、夏の原爆記念の日が近くなると、おじさまのことがやはり偲ばれます。
夢半ばで散った方に違いありません。
遠い山形の地から、ご冥福をお祈りさせていただきます。
おじさま、安らかにお休みください。

(丸山定夫出演映画一覧:日本映画データベース)

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