『南蔵王』について・・


(写真は、上山市大平山から眺めた蔵王連峰。南端(右奥)の方に見えるのが屏風岳1825m)

この作品は、私が小説というものを初めて手がけた思い出深い作品です。
高校時代、山岳部員だった私は、地元でもある蔵王連峰は何度も歩き回りながら、刈田岳から南へ広がる「南蔵王」という山岳地帯には一歩も足を踏み入れることなく卒業してしまい、どうも心残りでいたのでした。
そして後に、社会人になってから、一人でその南蔵王へ登った時に眼にした慰霊碑のことが頭から離れず、そのことを小説の題材として何か一作品を書いてみたい、とずっと胸の内に秘めていたのです。
この作品を書くに当たっては、私も本格的な(といっても素人ですが)取材なども行いました。
そして、どういった作品にしようか?・・と悩んだりもしました。
そして、下手なりにも、習作のつもりで、思い出深い「南蔵王」を書き上げたのは、1983年6月のことです。


(写真は、刈田峠「エコーライン」から眺めた南蔵王方面)

この作品は、特に発表はしておりません。
ただ、今回、何を思ったか、再びあの石碑を見てみたいという思いに駆られ、というのも、以前写してきた写真が紛失してしまい、どういう慰霊文が彫られていたのかが思い出せなくなっていたからなのですが、この際紹介するに当たり、もう一度見ておきたい気持ちに駆られ、なんと今年の6月、30数年ぶりに不忘山へ登ってきたのでした。
昔はデジカメも無かったけど、今回はデジカメで何枚もの写真を撮り、ブログにも掲載できることを楽しみに感じております。


(写真は、南蔵王中央部に広がる芝草平の花畑地帯)

作品掲載はやはりやめにして、単なる写真付きの「南蔵王」紹介ブログにしようか、とも思いました。
しかし、引き出しの奥から引っ張り出した私の処女作品「南蔵王」を読み返してみたところ、知っておかなくてはならない、いや、伝えていかなくてはならない内容もあって、思い切って作品全文を掲載してみよう、という気持ちになりました。
29年前の作品になります。
今年撮ってきた南蔵王の写真群と併せ、少しでも楽しんでいただけたら嬉しい限りです。


(写真は、作品の中心になる「不忘山」1705m)

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  『南蔵王』(みなみざおう)

 先月は、十日あまり北海道に行っておりました。兄が昨秋、札幌に転勤したものだから行こう行こうと機会を窺っていたのです。
 行ったついでに、あれもこれも見てこようと欲張っていたのですが、わずか十日ばかりでは、何処をどう見てよいか分からず結局は、兄の車を借りて、大雪山へとハンドルを向けておりました。
 兄の軽装備の登山用具を背に、頂上をねらうともなしに、雄大な大雪山の周囲を、ただひたすらにトレッキングして来たというわけです。
 考えてみれば、兄も私も、ずいぶんと北へ来てしまったものだと思います。ただ、兄と違うのは、自然へ対しての感じ方、対応の仕方です。
 自然の景観が優先するか、人情が優先するかの違いといえなくもありません。
 私は前者の方で、新しい土地に入ると、まずそこの自然の景色に感動してしまわないといられないのです。兄は、わずか六ヶ月ばかりなのに、すっかり札幌の人、いや、北海道の人になっておりました。
 北海道に行って思うのは、気候も風土も、私の故郷の沖縄と全く異なるのに、そこに住む人間が同質のように思われたことです。日本の北端と南端。やはりそこには、両端同士といった同じ条件が働いているのでしょうか。貧しいということでも同じなら、先日新聞で見ましたが、離婚率でも北海道と沖縄が、日本のトップに並んでいるのです。でもまあ、私にはそんなことはよいのです。自然派の私にとっては、自然こそが全てなのですから。
 やはり、北海道の自然はたいしたものです。兄も、夏休みになってから、ゆっくり来たらよかったのに。といっておりましたが、夏休みに入れば、いやが上にも観光客の一団が(とりわけ学生が)どっと押し寄せるに決まってますし、そんなことは我がふる里沖縄も同様なので、うんざりしてますから、学業の方も少しは心配でもありますが、思い切って十日間の休みを取り、六月の中旬に押しかけたという次第です。それというのも、冬季の半年間は、アルバイトでどこへも行けませんから、夏季の自由な期間は極力飛びまわっていたいという心境もあるのです。
 勉学の方は、ゆっくりと、山形の自然に抱かれて、順調にやるつもりです。


(写真は、不忘山山頂に立つ道標)

 わずかですが、私は新しい旅を終えた後は必ずといってよいほど、時差ぼけのような症状が出てしまい、ボーと、何も手につかなくなるのです。でも、これは自然派人間の持病ともいえるもので、そう心配するには及びません。これを治すには、ただ一つ、帰ってくるなり、すぐにまた、今度はそこの土地の自然の中を歩きまわるという、次なる行動に出ることに尽きるのです。

 そんなわけで、私は北海道から帰るなり、思い切って、南蔵王と呼ばれる山群を歩いてきました。ここは、私が山形へ来たときから気になっていた地帯でもあったのです。山形へ来てもう三年目ですが、中央蔵王と呼ばれる蔵王山の中心地帯はもとより、北蔵王と呼ばれる雁戸山一帯、または奥山寺や面白山など、ずいぶんと歩きまわっているのに、南蔵王と呼ばれる一帯だけへは、まだ一度も足を踏み込んだことは無かったのです。
 別に、とりわけて理由があったというわけではないのですが、でも、なぜか気になる存在だったことは事実で、美味しいものを最後に残しておこうとする子供のように、私はこの山群を最後までとっておこうと思っていたようなのです。しかし、今回、思い切って南蔵王へ足を運んでしまったのも、北海道で大雪山の雄大な大自然の空気を吸ってきたせいで、気が大きくなっていたのかも知れません。例のボーが出ると、すぐに、私はキスリングを背に出かけておりました。
 あ、それと、南と名のつくところから、この一帯へは一種の郷愁を感じていたようでした。
 それと、沖縄は嫌いだから、もう帰って住もうとは思わない自分が、この山へ行くことによって見透かされるような、そんな不安の入り混じった寂しさが、私の胸のうちに育っていたのかもしれません。(こんなことを書くと、また君に指摘されそうで恐いですが…)


(写真は、「不忘の碑」の石碑のある周辺光景。最上段の岩に石碑が刻まれている。)

 いずれにしても、北国生まれの君が南に興味を持ち、南国の大学に生活し、南国生まれの私は北に興味を持って、北国の山形に大学生活を送るようになったことの奇抜さと、不思議さ、それにその有意義さに、今改めて感じ入ると同時に、選択の正しかったことをも感じているのです。これも、君との高校以来続けてきた文通のたまものと、感謝いたしております。
 でも、冗談で書き交し合ったことを、本気になって考え込んでしまい、二人して悩んだあの日の頃が、つい昨日のことのように思い起こされてきます。君のふる里に立つ山を見たい一心で、私は遠く沖縄から願書を送ったときは、私自身、夢を見ているような有様でしたから…。兄にしても、東京を跳び越して、そんな東北の田舎(失礼)に行くことはないといってきたりでしたからね。でも、私は山形へ降り立ったとき、山形での生活を決心していたのです。そこにあるのは全てが沖縄に無いものの様に映ったし、いや、全てにおいて、沖縄と対照していたからというべきかも知れません。君も書いていましたよね、沖縄はまぶしいって。何もかもがきらめいていて眼が痛くなったって。そう、それが沖縄なのです。あまりにもまぶし過ぎるのですよ。見たくないものまで含めてね…。
 そして二年。私は私の選択に自信が持てたように、君の気持ちも私と同じようなので、私も大いに安心したというわけです。
 せまい沖縄のことだから、一年もしたら嫌気がさすに相違ないと決めつけていたのでしたが、君は海と島がことのほか好きらしく、また、先日受け取った手紙には、琉球の女性を好きになりそうだ等と書いてよこすものだから、君は自然の景観ばかりではなく、そこの人情までも愛し始めたことに、すっかりと沖縄に溶け込んでしまっていることも分かりました。
 それに引き換え、私なんかは、まだまだ自然だけが相手で、困ることしきりです。
 さて、そろそろ話を本題に移りたいと思います。
 ゴメンゴメン。ここまで長く書いておいてここからが本題!ふざけるな!という君の声が聞こえてきそうですが、ここからが本当に書きたいことだったので、もうしばらくお付き合いください。


(写真は、雲海を見下ろす不忘山山頂。右下に、作品にも登場する長老沼が見えます。)

 実は、私が今回書きたかったのは、今回歩いてきた南蔵王のことなのです。
 そう、先ほども書きましたが、私が南蔵王に行ったのは、六月二十六日でした。出来るだけ自然の中を歩きたいので、エコーライン側の刈田峠からのアタックはやめ、バスを二度ばかり乗り換えて、高畠から二井宿を越え、宮城県の横川というところで降りて、長老沼の湖畔でキャンプを張りました。そして、翌朝四時半に出発、まずは不忘山(一七〇五m)目指して登山を開始したのです。
 まだ梅雨の最中なので、天候はすぐれず、早朝は晩秋を思わせるほどの寒さなのですが、やがて一時間も歩くと、汗が吹き出てきます。ブナ林の中の急峻な登り道では、濃いガスの中から女性三人のパーティが急に現れて、山には私一人だけと思っていた私は一瞬驚いたのでした。彼女たちは、宮城か、福島の大学生のようでした(私の勘では)。早朝から女性のパーティに出遭うのは嬉しい限りです。歩調の速い私に彼女たちは道を空けてくれました。
 やがて、樹木の間の道を出ると、今度は岩と土だけの道です。防風林がなくなったせいか、急に風も強さを増し、ガスで十メートル先ほどしか見えないのです。さらに登ると、ガスが小雨に変わったようでした。もし、先ほどの女性のパーティに出くわさなかったら、私はここでもう諦めて引き返していたかも知れません。雨の中の登山は辛いだけですからね。
 登り始めてから三時間。ついに不忘山の頂付近に達しました。
 しかし、話はここからが本題なのです。
 山頂付近は雨と濃いガスに覆われておりましたが、ガスの切れ間に一息ついていると、なんと、そこに大きくて立派な石碑が現れたのです。
 その石碑には、「不忘の碑」とタイトルが付けられて、なにやら英文と和文がかなり刻まれていたのです。
 その内容を要約すると、太平洋戦争中に、この山中へアメリカのB29三機が墜落し、乗員34名が全員死亡したというものでした。


(写真は、「不忘の碑」の石碑)

 沖縄に生まれ育った者には、戦争の記念碑など、数多いそれらの中で生活しているようなものですから、慰霊碑などは忌まわしい思いこそあれ、珍しくもないのですが、もし、私が今回の石碑を見て何かを感じたとしたら、その石碑が日本人を弔ったものではなく、アメリカ兵だけを弔った石碑だったことかも知れません。
 その時は通り一遍眺めただけで、そこからすぐ先にある不忘山山頂で朝食をとり、それから屏風岳(1825m)へと向かいました。稜線の中間地帯の芝草平あたりで次第にガスも晴れ、やがて刈田から熊野、地蔵と歩いて蔵王温泉に下り、バスで山形駅に着いたときは夜の九時を回っておりました。
 それからというものは、すっかり例のボーもなくなり、普通の生活に戻ったのですが、日を重ねるにしたがって、気になりだしたのがあの不忘山で見た石碑のことでした。
 沖縄に生まれ育ったといっても、太平洋戦争は私の生まれるずーっと以前のことであり、とくに戦争の話を聞こうとしなくとも、周りから耳に入ってくるので、沖縄人の体質というのか、そこに生まれ育った者の宿命というのか、今もいたるところにアメリカの軍事施設や基地などもあることから、いやおうなしに戦争とかかわらされているといった風土的なものがあり、むしろそこから逃げ出したいという思いが強かったといってもよいかもしれません。
 その私が、南蔵王で眼にしたアメリカ兵の慰霊の石碑に関心を持ってしまったということに、私自身どう説明したらよいものか、とにかく自分でも不思議でした。
 太平洋戦争は体験してなくても、B29の名前だけは知っていたし、あの原子爆弾を投下したのもB29だったことも知っているし、日本はB29によって負けたとも聞き及んでいましたから、その飛行機の恐ろしさも体にしみこんでいました。
 もしかしたら、その強大で恐ろしいB29が、いとも簡単に、このような東北の静かな山に墜落してやられていることが、私には新鮮な驚きだったのかもしれません。
 そして私は、南蔵王から帰ってから、そのことについて、もっと知りたいと思うようになったのです。


(写真は、「不忘の碑」の石碑の前に立つ道標)

 そんなわけで、あの石碑を見た日から二週間後、今度は友人から車を借りて、私は再び宮城県の横川へと向かっておりました。
 山形県出身の友人数人に聞いても、分からないこともあり、何といっても、B29の墜落現場に最も近い集落でもあることから、そこで何かを聞き出せるに違いないと思ったのでした。
 その日は晴天で、この前の濃いガスの日とは違いました。横川村へと近づくに従い、南蔵王の山塊が眼にせまってきました。
 あの美しいまでになだらかな山容から、あそこで三機ものB29が墜落したとは、とても信じられない思いでした。一体、そのB29はどこからやって来て、どこへ向かおうとしていたのか?…。私の疑問は膨らむばかりでした。
 横川に着いたものの、どこから聞き出したらよいものか、私は迷っておりました。比較的民家のある道路を何度も行き来していたのですが、ついに一軒の集落にある数少ない店に入りました。客を装って何気なく聞き出そうと思ったのです。農家の道路に面した家屋部分だけを改造して、店舗にしたといった感じの、その集落内においては比較的大きな店でした。
 出てきたのは若い娘さんのようですが、奥の母屋のひさしには、赤子の衣類が干してあるのを見ると、若い奥様なのかも知れません。
 私は心もとなかったのですが、ついにB29の墜落について聞いてみました。
 「さあ、…私は何もわがんねっす」
 案の定というべきか、この女性はよそから嫁いできたのでしょう。しかし、ここで引き下がってはここまで来た意味がありません。私は諦めずに、誰か他に知っている人はいないでしょうか? などと食い下がると、いったん奥に引っ込んだ若い女の代わりに、今度はひどく年老いたおばあちゃんが出てきて、私の前に座り込みました。
 私は運がよかったのかも知れません。この老女の話を聞くと、この老女の主人が、戦争当時、この村にあった警防団の団長をやっていて、B29墜落のときも、その捜索に出ているというのです。
 「皆びっくりしてよ、飛び起ぎだったなあ。まだ夜中によ…。戸どいう戸がぜんぶ、大っきな地震が来たみだいによ、ガダガダなたんだもの、…家まで揺らしたもんだ。…飛行機の大っきな音でよ」
 老女は、誰かに話してみたい思いが胸いっぱいに詰まってでもいたのかもしれません。こちらの質問も待たずに、次々と話し出すのです。
 「ひどぐ雪の降る夜だったなあ。…鉄砲の音一づ聞こえで来たごどもないこだな山奥さ、まさが飛行機あて飛んで来っとも考えでいねべす。…お父がすぐ裸足で外さ出でよ、見だごどもないような大っきな飛行機だていうべす。…村さは男たちは皆兵隊さとらってでいねべす。で、怖くてよ」
 老女は、よほど印象に残っているのか、昨夜のことのように喋るのです。
 中でも、最初の一機は、かなりの低さで飛んでいったとのことでした。
 「暫くすっど、花火でも上がったような音がして、出てみろ!っていうお父の声がして、おらも出てみっど、不忘山の方さ真っ赤な炎が上がっていだっけ。そしたら、次の飛行機が手前の方がら爆弾落どしたんだべな、雪の中さ仕掛け花火でもしたみだいによ、次々ど爆発してきれいなもんだっけ…。そして、その飛行機も次の飛行機も、そのまま山さ突っ込んで行ったのはよ…」
 いつの間にか私は、老女のすすめるままに母屋の方に移り、若い女の運ぶお茶をご馳走になっておりました。


(写真は、不忘山山頂から眺め下ろした横川村方面。途中に石碑のある岩が見える。)

 そして、昼食に帰るという老女の主人を待つことにしたのです。ですが、なかなか主人の帰ってくる気配がないので、私もしびれを切らして、こちらからその居場所を聞き、私の方から出かけてみることにしたのです。
 本道からはずれた横川村は、広大で静かな環境から、その特性を活かして、休暇のための村造りに取り組んでいるのか、樹木の間にキャンプ場や、バンガローなどが点在し、大きな農家は民宿もやっているらしく、それらしい看板が所々に見受けられるのです。
 老女の話では、主人は長老湖畔に売店を営んでおり、貸しボート業もやっているとのことでした。
 私の車が近づくにつれて、売店のスピーカーが奏でるかなりノイズの混じった音楽が、風にあおられて聴こえてきました。そして、老女のいっていた通り、売店の傍に青のトラックが停めてありました。
 日曜日のせいで、辺りは若い人出で賑やかです。貸しボートを押したり引いたりしている若い男が、先ほどの若い女の主人なのでしょう。また、売店の中には、老女の主人と思われる、眼鏡をかけた真っ黒に日焼けした老人の姿がありました。
 近づく私はもう親類のような気持ちでしたから、多少にやけて近づいたのかも知れません。そんな私を、売店の主人は警戒しているようでした。店も忙しく、私の話に耳を傾ける時間がないのです。それでも私の意味が通じたのでしょう。老女の主人は、暫く考えているようでした。私はその主人からも、老女のように気軽に話が聞けるとものと思っていたのですが、そうでもないのです。
 私は、これはダメかな、とも思いました。
 忙しいからダメなのか、それとも話したくないのか、…。
 そんなことを考えながら、私は売店で買った缶コーラを飲みながら、すぐ目前に聳え立つ、この前よりも緑が濃くなった不忘山と、南蔵王の山塊を見やっておりました。


(写真は、不忘山山頂からの風景。けっこう岩がゴロゴロとしている。)

 すると、客の途切れた時間を見計らって、ポツリポツリと話し始めてくれたのです。
 老人の家は、代々冬の間は猟師をしていたそうで、そのために戦時中は、この村に残った男たちで組織した警防団の団長をしていたのだそうです。
 大きな飛行機が不忘山へ突っ込んで爆破した翌日、横川村ではさっそく11人の警防団捜索班を組織して、手には斧や鎌、それに数丁の猟銃を持って捜索に向かったのだそうです。
 その時点では、墜落したのは敵機なのか、日本の飛行機なのかは判っていなかったそうで、また、それらの情報をもたらしてくれる組織もなかったそうです。だから、捜索は軍の命令で行ったわけではなく、村の警防団独自の判断で行ったのだそうでした。それでも、団長の店の主人は、聞いたことの無い飛行機のエンジン音から、敵機に相違ないと確信していたそうです。
 現場に着くと、腰までの雪の中、捜索班を三班に分け、方々から近づいたそうです。
 「尾翼の部分を残してよ、めちゃめちゃ焼げでいだったなぁ。…その尾翼の中さ、全然傷のない二人がよ、抱ぎ合うようにしてパラシュートさくるまていだっけな…。」
 話は、店の老女のものと違って、いきなり現実味を帯びるものでした。
 「触てみっどまだ温かいっけがら、おらだ行ぐ少し前までは生ぎったんでねえべが。…」
 また、
 「その飛行機さは全部で九人乗っていだんだげんと、六人は凍死だべなぁ…。あどの三人は焼げったり、挟まったりでひどいもんだった」
 老人の話では、その日は一機見つけただけで終わったそうでした。それに、その飛行機がB29という飛行機だということも、その時は知らなかったそうです。
 私は、その死体はどうしたのかを聞くと、
 「皆、丸裸にしてよ、遺体はそのままにしてな、衣類はみな持ってきたったな。…それごそ、パンツまで持ってきた。…何も無い時代だったがらな…」
 老人は、考えながら、時おりは沈黙も入れて、ぼそぼそと話すのです。
 衣類は持ち帰り、遺体はそのまま放置してきたとのことでした。
 「なんでも、鬼畜米兵の時代だったがらな…、悪いごどなんて思わながった」
 そして、山から下った警防団によって、その報が役場にもたらされたそうで、その後役場から軍や県庁へ連絡が行き、そこから新聞社やラジオ局に知らされたそうです。
 その冬は、数十年ぶりの大雪で、さらに別の二機を発見したのは、数日も後のことでした。


(写真は、南屏風岳付近から、遠くに、上山市方面を眺め下ろす。)

 老人の話では、B29はサイパンから飛来し、三月十日の東京大空襲に飛来した飛行団と別れ、東北の県都を爆撃に向かった飛行団だというのでした。それが悪天候のため進路を誤り、不忘山山腹に激突したものだろうというのです。
 「一機目が爆発したどぎ、後続の二機はそごがもう仙台だど思たんだべもな。爆弾バタバタて落どしながら山さぶつかっていったんだもの…」
 結局、B29の落ちた場所はまちまちで、三機目などは、刈田岳に近い芝草平に落ちていたそうです。
 やがて、遺体はそのまま夏まで放置され、八月に終戦を迎え、九月になってから、数台のトラックとジープに乗った進駐軍が横川村にやって来たのでした。そして進駐軍の要請で再び警防団のメンバーが米兵を現場に案内したときには、遺体は朽ち果てて、きれいな白骨になっていたそうです。
 「アメリカ兵はみなビグビグしてよ、藪を切るために斧を振るおうとすると、いっせいに鉄砲やら拳銃を構えて、汗ダラダラかいでいだっけ…」
 老人の話は、確かにその目と手で触れてきただけに、私にとっても強烈なものでした。 一応話は済んだので、私は礼を申し上げてその場を立ち去ろうとすると、老人はさらに話しかけてきて、
 「ほれ、この時計もあの日現場がら持ってきたものだ。…」
 といって、腕から外して見せるのです。純金製の重みのあるその時計は、裏にブルーバードという英字が刻印されていました。
 「四十年間、一度も故障したごどなんかない。…いや、いい時計なもんだ。…」
 もう少し詳しく聞くと、その時計は、最初に発見したB29の尾翼で、パラシュートにくるまっていたうちの一人から外して持ち帰ったものとのことでした。
 私は横川に向かうとき、出来たら墜落現場の詳細場所も地図に書き込みしてもらうつもりでいたのでしたが、話を聞くうちに、そんなことを言い出す気分も失せ、もう十分という気持ちになっておりました。
 横川の集落を後にするとき、さわやかな初夏の風にさらされた南蔵王の山群は、何事もなかったかのように、静かに私の背後に聳えていました。
 あの「不忘の碑」の石碑ですが、昭和三十六年九月に、地元白石市の篤志家達によって建立されたそうです。当日は、ヘリコプターで米軍関係者ならびに遺族の方達も列席のもと除幕式が行われたそうですが、老人がいうには、横川村へは一通の連絡もなかったとのことです。そのことが、あの老人には少し寂しかったようでした。


(写真は、「不忘の碑」石碑に刻まれた全文。)

 私は、帰りの車の中で、次第に遠ざかる南蔵王を見やりながら、
 「遺族の方が、その時計を返して欲しいといってきたら、返してあげますか?…」
 という質問を、あの老人に投げかけようとして思いとどまったことを考えておりました。

 と、まあ、こういうことです。
 私が沖縄から出てきて、これまでは逃げていた戦争の話を、こっちに来て初めて聞いてみようといった気持ちになったのは、なんとも不思議でなりません。しかし、戦争にまつわる話とは、どうしてこうも後味の悪いものなのでしょうか。やはり私には、沖縄にある数百もの慰霊碑を一つ一つ調べる勇気は出ません。
 あ、それから、私はその後山形市の地元の新聞社に行って、当時の新聞を閲覧してみたところ、B29墜落の記事は思ったよりも小さくではありましたが載っておりました。また東北では、山形と秋田を除いて、他の4県は大小の差こそあれ、すべて空爆にあっているのです。ということは、あの不忘山に墜落した三機は、山形市と秋田市へ向かっていたのでしょうか。そうだとすれば、南蔵王の山群は、山形の人達を救った山ということにもなりますね。もしそうだとすれば、山形の人にとって、あの南蔵王の山群は、無縁の山ではないはずです。もっと感謝されてもよい山なのかも知れません。


(写真は、南屏風岳から眺めた、南蔵王の山肌と、刈田岳と蔵王のお釜方面。)

 そういえば沖縄の方でも、六月二十三日が終戦記念日に当たるので、様々な慰霊祭が行われ、賑やかだったろうと思われます。
 もうすぐ午前三時です。長々と、手紙にお付き合いさせてしまいましたね。もうペンを置きます。

 ああ、それから、夏休みの計画表を送って下さい。

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