父の事(赤紙の舞い込んだ頃)

父の事。
4月13日は父の誕生日でした。
生年は大正3年4月13日。生きていれば、今年104歳になります。

珍しい写真がアルバムにあったので、迷いましたが、紹介してみたいと思いました。
この写真の父は、二度目の『赤紙』召集であると思います。襟章の星の数から「上等兵」と判明しました。
生前父は三度召集されたという話を父本人から聞いておりました。そして、父の最終階章は伍長であったことも聞いております。
今は確認のしようも無いのですが、もし二度目であれば22歳か23歳頃でしょうか。

戦前の日本では1873年の徴兵令、1927年公布の兵役法によって、満20歳(1943年からは満19歳)に達した男子は、全員徴兵検査を受けなければならず、合格者は翌年1月に入営して2年間の兵役に服することが義務づけられていました。

陸軍は下から二等兵、一等兵、上等兵と分かれており。入営すると二等兵となり、以後概ね半年後の選考を経て一等兵になり、更に成績優秀な者は年末に上等兵になる者がいたそうです。また、上等兵には一中隊あたり一割の者しかなれなかったようです。
(父は甲種合格で入営し、成績も優秀だったようなので最初の兵役で上等兵までいったと思われます。私の想像ですが。・・)

また、上等兵の上の兵長という階級は、戦時中に増設された階級だそうです。
その詳細は、1938年中国との戦線が拡大し、多くの兵が除隊即日再召集という形で事実上召集が常態化していたために古参兵が増えてしまい、上等兵の上に兵長を設けることになったそうです。
そして、二等兵から兵長までが「兵」で、それ以上は伍長、軍曹、曹長であり、ここまでが下士官と称されていました。その上は、准尉、その上が士官(将校)で少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と階級は続くわけです。

話を戻します。
三度目であれば25歳か26歳頃と思われます。
父の戦地の話ですが、すべての兵役で中国大陸戦線を移動する部隊に属していたようです。

【息子として心を奪われるのは、この写真の父の眼です。】

一度の兵役を知っているだけに、戦地に赴けば生きて戻れるか分からないという、切ない、または必死という眼光を放っています。
後で思ったのですが、生前のこんな父の眼を私は見た記憶がありません。
・・

また話を戻します。
三度目の召集と兵役から何とか生きて戻った父は、28歳で結婚しました。
そして翌年29歳の時、子供(長男)を設けました。
家族を持った父は、4度目の召集を避けようと思ったのかもしれません。
当時は戦況が激しくなり、4度目の召集が当たり前になっている時代でした。
(期間は40歳まで(1943年以降は45歳まで)召集されたわけですね)

そこで父は、年齢制限ぎりぎりで警察官の採用試験を受けたのです。
(当時、公務員や警察官、消防士は赤紙が来なかったそうです。)

それに合格した父でしたが、内地での採用枠がなく、また当時では給料の高い外地といわれた樺太の警察官になりました。

・・そこで終戦を迎え、次男と私が生まれました。(長男は内地生まれ。)
私は引き揚げ直前に生まれたために、引き揚げ時期が延期されたとのことです。
(どこまで迷惑をかけるんだ、俺は(笑)である)

私の生まれたのは樺太の真岡市にある港町の病院で、私の名付け親はロシア人の医師でした。
その医師の取り上げた赤子は、すべて「女はヒロコ」、「男はミノル」とのことでした。当然私は「ミノル」と名付けられました。
両親は日本に引き揚げ後に、名前を変更しようと考えていたそうです。
しかし、生活に追われる中で、「ミノル」を「稔」という漢字に変更しただけで役所に届け出たということでした。

つまり、我が家は戦後引き揚げ家族だったのです。
家財全てを置いて来たので、当然私の写真も、5歳以前のものは一枚もありません。
そして、鍋釜ひとつ揃えるところから我が家のの歴史は始まったのでした。

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