父の日に思うこと・・

今日6月19日は、父の日だったんですね。
「母の日」にくらべると、やはり地味といわざるをえません。
それでいいんです。
今は亡き父ですが、この日に一年に一度くらいは、思い出し、そしてその思い出に浸るのもよいことかもしれませんね。
父の時代はたいていがそうでしたが、私は父と遊んだという記憶はありません。
戦後であり、大変な時代だったのでしょう。
周りの子供たちも、父親と遊んでいる姿など見ませんでした。
そんな時代でした。
それでも、私は、父のことが大好きでした。
無口な父でしたが、父は自分の働く後ろ姿で、すべてのことを教えてくれていました。
今でも、そんな父を追い越せないばかりか、頭があがりません。
本当に、尊敬に値する人でした。

◆以下の写真は、アルバムの中の若い(23歳ころ)独身時代の父の写真です。(ハンサムですね。昭和11年頃?)

◆そして以下の写真は、私が今でも大切にしている、学生時代、父親からの仕送りや、その時の手紙類です。
 まもなく半世紀が経ちますか。・・
 (今もって処分できずに困っている、というのが正直な気持ちでしょうか。あの時代、振り込みなど無い時代でしたので。・・その分、手紙に接することができた良い時代ともいえるのでしょうか。字もきれいです。それで捨てられないということもありそうです。)

【以下は再掲になります:父のこと】

父は、引揚者で、終戦後は無一文から大変な思いをされて、3人の子供を育て上げました。保育園に入ったのも、3人兄弟の中で、末っ子だった私一人だけです。

父は、勉学が好きで、山村の山奥の全校生徒が34人ほどの分校から、温泉町だったK町の大きな小学校(全校生徒8百名ほど)に転校してきたときも、クラスで1番の成績をとったほどで、もしも家庭経済が許すなら、大学へと行きたかった人でした。

しかし、兄弟だけでも8人もいる大家族。わがままをいえる環境ではなかったし、中学(尋常高等小学校)を卒業と同時に働かされ、兵役に3度とられ、その間結婚し、長男をもうけ、4度目の兵役を逃れるために受験年齢制限28歳ぎりぎりで警察官の試験を受け、合格し、少しでも給料の高かった樺太庁の警察官になり、そこで終戦を迎えて捕虜となり、あわやシベリア送りになるところを帰されて、その後数年後に家族5人を引き連れて日本本土へ引き揚げてきたという我が家の歴史があります。

もの心ついた頃の私は、父親の寝ている姿を目にしたことはありません。
朝も、昼も、夜も、父は働いていたようです。
引き揚げ後は兄弟間でさえ邪魔者扱いされ、本家の物置小屋をあてがわれ、鍋釜をそろえるところからの生活のようでした。
それが父の働きにより、物置小屋から長屋へ、さらに長屋から借家へと生活環境も変わっていったのですが、賢かった父は、一生ひとに使われるのは嫌だったらしく、ある日勤めを辞めて商売をはじめます。
そして、私が高校生の頃に、父は新しい住宅を建てました。
またしても、3兄弟の中で、自分の部屋というものを持ったのは、末っ子の私だけでした。

父のことを、もうひとつ書けば、父は商売をはじめたけれど、まったく商売人向きな人ではありませんでした。
父は、学者肌で、努力型で、ひとりコツコツと研究室に閉じこもって、成果を成す!というタイプの人でした。父なら、きっと大きな成果を残しただろうな・・。などと、子供心にも、私などは今でもそう思っています。
しかし、人の人生ほど、思うように行かない世界はないのかもしれません。

父は、自分は大学へ行けなかった悔しさを、自分の子供には味わわせたくないと思っていたようで、コツコツと苦しい生活の中でも、学資貯金をしておりました。
それでも3人分は無理なようで、末っ子の3番目の息子、つまり私には大学へ行かせたいという夢を持っていたようです。

そんな親の気持ちを知りもしない私は、当時を振り返れば、不良仲間と付き合い、勉強はそっちのけで、高校を卒業すると、さっさと就職をしてしまったのでした。
父の淋しい顔。淋しい気持ち。・・
子供なんて、残酷なものです。
いや、人生そのものが残酷なのかもしれません。

そんな父も、長年の無理がたたったのか、55歳で他界しました。
私が、21歳のときです。
就職をした私は、一年後に離職し、その後父の援助を受けて、専門学校へと入りました。バカな息子です。
その時期に交わした父からの手紙が、今も手元にある、捨てられない上記写真の手紙類(現金書留が主ですが)です。

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