文学と小説のあいだ(父のこと)

学生時代を通して、本など読んだこともなかった私が、ある時から、どうしたんだろう・・、というくらいに本読み人間に変身した時期がありました。
その時は、もう社会人になっていて、勉学に関していえば、時すでに遅しの感が強かったのですが、文学の世界の面白さを知ったことは、本との出会いを、また読書の素晴らしさを与えてくれた神様に対して、感謝したいと思っております。

その期間は、長く見ても、10年くらいだと思うのですが、その間、1,500冊ほど、作品数にすれば1万作品は読んだように思います。
古典から新作、翻訳モノから新人賞作品まで、手当たりしだい読みまくりました。

人間、何かに集中したり、没頭したりする時期というものが必ずあるように思います。
その時が、もしかしたら大きな人生の選択肢だったり、人生の節目、または分岐点だったりするのかもしれません。

(写真は、上山市の雪の八幡神社。社殿を背に写す。背景の山は地元で有名な三吉山。)

(写真中央右端には、あの映画「おくりびと」で見覚えのあるロケのスナックが写ってますよ)

父は、引揚者で、終戦後は無一文から大変な思いをされて、3人の子供を育て上げました。保育園に入ったのも、3人兄弟の中で、末っ子だった私一人だけです。

父は、勉学が好きで、山村の山奥の全校生徒が34人ほどの分校から、温泉町だったK町の大きな小学校(全校生徒8百名ほど)に転校してきたときも、クラスで1番の成績をとったほどで、もしも家庭経済が許すなら、大学へと行きたかった人でした。

しかし、兄弟だけでも8人もいる大家族。わがままをいえる環境ではなかったし、中学(尋常高等小学校)を卒業と同時に働かされ、兵役に3度とられ、その間結婚し、長男をもうけ、4度目の兵役を逃れるために受験年齢制限28歳ぎりぎりで警察官の試験を受け、合格し、少しでも給料の高かった樺太庁の警察官になり、そこで終戦を迎えて捕虜となり、あわやシベリア送りになるところを帰されて、その後数年後に家族5人を引き連れて日本本土へ引き揚げてきたという我が家の歴史があります。

もの心ついた頃の私は、父親の寝ている姿を目にしたことはありません。
朝も、昼も、夜も、父は働いていたようです。
引き揚げ後は兄弟間でさえ邪魔者扱いされ、本家の物置小屋をあてがわれ、鍋釜をそろえるところからの生活のようでした。
それが父の働きにより、物置小屋から長屋へ、さらに長屋から借家へと生活環境も変わっていったのですが、賢かった父は、一生ひとに使われるのは嫌だったらしく、ある日勤めを辞めて商売をはじめます。
そして、私が高校生の頃に、父は新しい住宅を建てました。
またしても、3兄弟の中で、自分の部屋というものを持ったのは、末っ子の私だけでした。

父のことを、もうひとつ書けば、父は商売をはじめたけれど、まったく商売人向きな人ではありませんでした。
父は、学者肌で、努力型で、ひとりコツコツと研究室に閉じこもって、成果を成す!というタイプの人でした。父なら、きっと大きな成果を残しただろうな・・。などと、子供心にも、私などは今でもそう思っています。
しかし、人の人生ほど、思うように行かない世界はないのかもしれません。

父は、自分は大学へ行けなかった悔しさを、自分の子供には味わわせたくないと思っていたようで、コツコツと苦しい生活の中でも、学資貯金をしておりました。
それでも3人分は無理なようで、末っ子の3番目の息子、つまり私には大学へ行かせたいという夢を持っていたようです。

そんな親の気持ちを知りもしない私は、当時を振り返れば、不良仲間と付き合い、勉強はそっちのけで、高校を卒業すると、さっさと就職をしてしまったのでした。
父の淋しい顔。淋しい気持ち。・・
子供なんて、残酷なものです。
いや、人生そのものが残酷なのかもしれません。

そんな父も、長年の無理がたたったのか、55歳で他界しました。
私が、21歳のときです。

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