どう生きる?は、どう死ぬ?、と同義語ということ

高校のとき、ある先生が授業の中で、「人生の中で、最大の問題は、死ぬことだよ」・・といったことがある。
当時多感だった私は、授業の内容より、その言葉に、先生の顔を凝視した。
そんなことをいう先生は、他にいなかったからである。

私は、小学生のころから、ある事情(病気)で、いつも生死のことを考えていた。
だから、死に対しては、すごい敏感な子供だった。
勉強などはもうどうでもよかった。
自分はあとどれくらい生きられるのか? そのことが最大の感心事だった。
たぶん他の生徒とはかなり変わった小学生だったことだろう。

私はひとり悩んでいた。その悩みのことは親兄弟にも伏せていた。
いつもはひょうきんに、明るく振舞う子供と映っていたにちがいなかった。
勉強などは、どうせ死ぬんだから、そんなのしたって無駄なことだと思っていた。
だから勉強などはいっさいせず、成績はいつも最下位に近かった。

高校のその先生は、またこういうこともいった。
「普段みんなは、死ぬことを考えて生きてないよね。死っていうのは、漠然としていて、どこか遠くにあり、自分と関係ないように思って生きている。それが普通だよね。それは間違いじゃない。それでいいんだ。・・でもね、いつかはみんな、誰もが例外なく死と直面するんだよ。そして、その時になって、あわてるんだよ。」

先生の真意がわからないから、何をいいたいのかがつかめなかったが、私には心に響くものがあって、熱心に先生の語らいに耳をかたむけた。

先生の話に、解答といえるものはなく、私の記憶に残っているのは、人間にとって「死」こそが最大の問題であるといった先生の言葉である。
だから、生きることと同様に、死も大事だから、生死をセットにして考え、そこから一度しかない人生を意味のあるものにしなさい。そういいたかったのであろう。と・・そう私は解釈した。

これは「死生観」というものに属することかもしれない。
日本にも、「武士とは死ぬことと見つけたり・・」などという、有名な葉隠れの一節がある。
また、「生きるも死ぬも・・」という言葉もある。
どうも、多くの人が宗教を持たない日本人とは、いがいと独自の「死生観」をもっている国民なのかもしれない。

ただ、生は一人を意識しなくとも、死は確実に個人の問題としてかかわっている。

あの時の高校の先生の話のように、私の話もとりとめがなく、まとまりがない。
ただ、まとめるとすれば、人は死なない限り生きている。こんな当たり前のことだが、それならば、「生」も死と同じように「問題」なのではあるまいか。・・である。

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