「私小説」というもの・・

今年に入ってからは、月に1~2冊程度の読書量で推移しています。
けっこう再読が多くなりました。
再読もけっして悪くはないですね。
10年ぶりで読み返したり、20年ぶりで手にしたりの本もあったりして、
自分でも、その年月の過ぎ去る早さに驚かされております。
が、読書感というか、本の感想というのが、以前読んだときと全く異なっていることに、これまた驚かされてしまいました。
ということは、年齢によって、読書から受ける印象も感想も違っているということなのです。
このようなことはよく言われて知っていることなのですが、今回あらためて再認識しました。
つまりは、人生という手垢の付いた年齢で読むのと、未成熟なために空想だけで読むのとの差のようなものかもしれません。
この差を成長と呼べるのかどうかは、疑問符がつくところですが・・。

最近読んだ本のタイトルを挙げてみると、
「月山」(森敦)、「愛と苦悩の人生」(太宰治の言葉)、「火宅の人(上)」、「火宅の人(下)」(壇一雄)、「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」(壇一雄)、「幼き日のこと・青春放浪」(井上靖)。
そして今は、「しろばんば」(井上靖)である。

私の読書スタイルは、昔から似た傾向があって、同じ作者の作品を続けて読破する・・、という癖がある。
そして、もっとのめりこむと、その作家の生い立ちや環境に関心が及ぶ。という結果になる。
ここまで来ると、もうその作家のファンの一人に数えられるのだろう。

今回も、壇一雄の著名な作品を再読した。
ほとんどが私小説と呼ばれるジャンルのものである。

この「私小説」というものについてであるが、私もモノを書こうとしたころ、私小説のもつ壁にいきなり突き当たってしまった思い出がある。
自分のことを書こうと思うと、必ず相手があるわけで、つまり、自分を書くことは、相手をも書くことになるのだ。
その結果、こんなことを書いたら、相手に迷惑が掛かったり、怒られはしまいか、などと、書きながらも、いたるところでペン先が止まってしまうのである。
そのために、断念した作品も多い。

今回、壇一雄の「火宅の人」や、「リツ子・その愛、その死」の一連の私小説を読み、なんと心臓の強い人だろうと、壇一雄氏をあらためてそう思ったのである。
以前は、そんなことはおかまいなしに読んでいたのであろう。ストーリーだけを読み進めただけであったから、作品のよしあしだけを眺めていた。

しかし、今回の再読では、主人公の周辺の人々の気持ちが痛いほど、針先のように突き刺さってくるのである。
書かれる方は、親戚でも悪口を書かれるし、性格の悪さだとか、家の雰囲気だとか、または村全体の印象や、集落に暮らす人々もさんざんに書かれているのが、眼に飛び込んでくるのだ。
悪口というと少々誤解があるかもしれません。なんといっても作品内での大事な要素でもありますので。
しかし、書いてゆく方はもっと苦悩しているのだろうが、まあよくも、ここまで書けるものだ・・。
などと、感心したり、壇一雄氏の心臓の強さに頭が下がる思いで再読したのです。

あ、「火宅の人」も、「リツ子・その愛・その死」も、すばらしい作品です。それに好きな作品です。

ただ、何度もいうようですが、私について書くということは、本当に本当に至難の業なのです。
私は、気が弱いばかりか、遠慮する方なので、私小説作家には到底なれません。

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